ななころびやお記

27歳国語科。「ことばを介して仲間とつながる」をテーマに日々奮闘中。国語の授業、中学生とのクラスづくり、部活運営、ちょっとした工夫などを中心にゆるゆると日頃の思ったこと、気づいたこと、思いついたことを書き綴っていきます。

その活動、本当に頭使う必要ある?課題解決型授業の落とし穴は「自動化」にあった!

夏休みに行った教育関係の10の研修のうち、印象に残った講義を紹介します。

「行動・思考の自動化」によって課題解決できてしまう授業は、思考力を高める授業ではないというものでした。

 

研修内容:発問「いじめとはどのようなものですか?」

研修では、

模擬授業のような形で、「いじめとはどのようなものか」をB7判の紙に3分で書きなさい。

という課題がでました。

いったい何をされるのだろうと思いながらまずは書いてみました。

 

研修内容:指示「列で前から一人ずつ発表してください」

次に、列指名で1人1人が発表していくことになりました。

すると、参加者の先生方は

「一方的に精神的・身体的な苦痛を・・・」

といったような、言い方を違えど、ほぼほぼ同じ答えが返ってきました。

私も、印象に残らないくらい無難な答えを言ったと思います。

 

ありがちな展開と思いきや・・・

しかし、発表者の先生は、発表と共に模擬授業を打ち切り、「この一連の模擬授業でみなさんは本当に思考力を使いましたか?」という指摘をされました。

考えているようでいながら、どこかで聞いたことのあるフレーズをそれっぽく言っているだけではないですか?と。

 

ここに「行動・思考の自動化」という落とし穴がある

教員にとっていじめの定義など、初任研やら市教研やらで、何度も何度も何度も何度も繰り返し目にしているもの。

だから、考えている振りをしながらも、さほど考えずにいじめの定義を書くことができるようになっているのだそうです。

 

私は、「たしかに頭を使っていなかった自分」「使っているぶっていた自分」に、はっとしました。

教師の側では「だいたいこんな答えが返ってくるだろう」と思い

生徒の側も「だいたいこんな答え言っておけばいいだろう」と思う

このように、「自動で出てくる定型文」のような答えを言わせて言葉のキャッチボールがあることに満足してしまう授業は、果たしていかがなものだろうか、ということなのでしょう。

 

「行動・思考の自動化」が起こってしまう理由の考察

それを受けて、自分の中でどうして「自動化」が起こるのかを考えてみました。

 

 

1.仲間に合わせているほうが楽

日本人は「和を以て貴しとなす」といわれます。

周りの人と合わないことが怖いから、周りの人に自動的に合わせた答えを出していくほうを選ぶシーンは多いかもしれません。

 

2.よく目にしている考え方に沿っていればなんか安心

世間一般から大きくそれた考え方をしていることが怖い、これも上の仮説のスケールが大きい版だと思えばいいでしょう。

「ふつうに考えて、それはないでしょ」と言われるのはそこそこ怖いものです。


3.そもそも考えることがめんどう

頭を使うっていうのはエネルギーがいりますよね。
だれかの考えを借りて、頭を使わずに済むならそのほうが省エネなのではないでしょうか。

 

自動化してしまった思考を使ったほうが、少ないエネルギーで、傷つくことなく授業に参加できてしまうのです。

しかし、これでは、本当の思考力は身に付きません。

 

思考力を高めるためには?

思考力を使っていき、スキルとして身につけていく必要があります。

たとえば…

  • 抽象的なものを具体化する
  • 具体的なものを抽象化する
  • 2つ以上のものを比較する
  • あるものごとを分析する
  • 自分なりの仮説を立てる
  •  出来事についてこうではないか?と推理する
  • AかBかを自分の価値観に沿って判断する

そして、それらの思考を表出することが必要になります。

書いても喋っても、それ以外の方法でもいいのですが。

表に出すことで、また仲間から刺激を受けます。 

 

果たして自分の発問は本当に頭を回転させることが必要になる発問ですか?

アクティブラーニングという言葉が、よく聞かれるようになっていますが、「活動主体の授業」と言われる授業の多くがこの落とし穴にかかっているように思います。

活動してるから、それっぽいと満足するのではなく、本当に思考力が高まるのだろうかと一度自分の授業のことも振り返ってみる必要がありそうです。